北東向きのベランダ

半日陰ベランダでの野菜作りと読んだ本の記録

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day 乙一

The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day

The Book
―jojo’s bizarre adventure 4th another day

乙一



人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!



私のiPodの裏面に彫られているメッセージだ。
自分で彫ったわけではない。

しかし、このようなメッセージが彫られたiPodをプレゼントされて決して嫌ではないし、ジョジョ百人一首で上の句を聞いて対応する下の句を取る事ができるくらいには、ジョジョの奇妙な冒険を読んでいる。



で、乙一。

名前は知っていたが、食わず嫌いだった。
というのも、趣味も人生観もまったく合わない、どころか、ときには嫌悪感さえいだいてしまう同僚が乙一を大絶賛していたので、じゃあ乙一という人の作品も私とは合わないだろうなーと思っていた。

しかし、乙一がジョジョの奇妙な冒険の小説を出すというではないか。
そして彼は、松岡正剛氏に、デビュー作をもって「どうやらこの作者は、芥川や太宰の才能をもっているのではないかとおもわせる」なんて言わせている。
「いくつかの場面が素材にさえあれば、それらをその場面にひそむ言葉をもってつなげていける作話術の才能」がある、と。

作品のテイストはわからないが、文章は好きかもしれないと思い、乙一作品に手を出してみることにした。

この作品は、ジョジョの奇妙な冒険という漫画の第4部のオリジナル小説だ。
杜王町という日本の架空の町が舞台。
一応、原作漫画を読んでいない人でも読める作品、ということになっているらしいが、どうだろう、やはり原作を読んでいないと「スタンド」というものの概念を理解するのは難しい気がする。

乙一は相当なジョジョファンとのことで、小説の随所に原作漫画の細かいネタが散りばめられていた。
これがファンサービスなのか、本人の趣味なのかは判断がつかない。
おそらく両方だろう。

なんというか、乙一のジョジョへの愛情は感じるのだが、それが強すぎるのか、小説としての客観性が少々足りないように思った。特に前半。
内輪向けの、閉じた作品になっているといったらいいのだろうか。
とても出来のいい同人誌といった感じがする。
(といっても同人誌を読んだことがないので、あくまで想像なのだが)
漫画のノベライズってこういうものなんだろうか。

読後感がよくないのや独特の言葉遣い(普通は漢字で表す言葉をひらがなにする)は著者の持ち味だと思うので、ここでは触れない。

話の内容は、この作品がジョジョの「小説」であるということで、小説オリジナルキャラクターたちに「小説」というキーワードを絡ませているようだ。
それはそれでいいと思うのだが、漫画作品をせっかく小説にするのだから、小説でしか、文章でしかできないようなしかけが欲しかった。
少女が小説家志望なのも、小説に絡んだスタンド能力も、漫画でも表現できる。
じゃあ、べつに小説で書く必要はないんじゃないかと。
思ってしまった。つい。

これは素人の個人的な意見なのだが、完全に荒木飛呂彦をトレースするか、すべて乙一色で書いてしまうか、どっちかに針を振り切ってしまった方がいい作品になったのではないだろうか。

うーん、なんだろう、このモヤモヤ。
ジョジョを小説にした理由が、乙一が書いたメリットが見えなくて、引っかかっているのかな。
この小説が、ジョジョの「作品」じゃなくて「ファングッズ」の一つに見えてしまう。

その話はいったん打ち切って。
今回、乙一の文章は結構好きだということがわかった。
平易な文章に見えて、肉の削ぎ落とし方がうまいというか。
書かずに、見せずに、でも心の動きをわずかに感じさせる。
私のツボに入った。
作風があまり好きになれなかったのが、残念。

あと、物語後半の、スタンド同士の戦闘シーンはもっとテンポよくやってほしかった。
戦闘方法が特殊なので、説明に行を割かざるを得なかったのだろうけど。

あ、読んでいてどうしても気になったのは、岸辺露伴の「うちら」という発言。
そうだっけ?
激しい違和感が。
でも、原作ファンが厳しいチェックをすると分かっているノベライズ、本当に間違っていたら出版前に誰かが気づいて修正するような気もするが・・・?



The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another dayThe Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day
(2007/11/26)
乙一

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影との戦い  ゲド戦記 ル=グウィン

影との戦い―ゲド戦記 1

影との戦い―ゲド戦記 1

アーシュラ・K. ル・グウィン
訳:清水 真砂子


ゲド戦記。
言わずと知れた、ファンタジー小説の名作。

私は、これまで3度、ゲド戦記を読み損ねていた。

最初にゲド戦記の存在を知ったのは、たしか中学生のとき。
この本が読書感想文の指定図書の一つに選ばれていた。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」や「モモ」を読んで、海外ファンタジーってすげぇなぁとぼんやり思っていた頃だったので、あらすじに「魔法使い」の単語を見つけただけで興味がわいた。
でも結局、その年の読書感想文用の本は北杜夫の「船乗りクプクプの冒険」に決め、クプクプを読み終わったら他の本に手を出してしまい、ゲド戦記のことは忘れてしまった。

次にゲド戦記を思い出したのは高校生のとき。
高校の図書館でゲド戦記を見つけ、スティーヴン・キングの「シャイニング」とどちらを先に読むか迷った。
ちょうどゲド戦記を読んだ事のある友人がいたので、彼女に話を聞いてみると「1巻は最高に面白くて、その後は巻を追うごとにつまらなくなった」とのこと。
「ゲド戦記って名前なのにゲドの話じゃなくなるんだよ」と。
その友人とはわりかし本の趣味が合っていたので、それじゃあと「シャイニング」を先に読み出し、ゲド戦記を読む前にまたもや他の本に手を出してしまい、ゲド戦記のことは忘れてしまった。

3度目は、ジブリによるゲド戦記の映画公開時。
あ! と思った。
今度こそ読もう! と思った。
だが仕事に忙殺されて、そうこうしているうちに他の本に手を出してしまい、ゲド戦記のことは忘れてしまった。
成長がない。

そして先日、ジブリ作成のゲド戦記の映画がテレビで放送されるというTVCMを見て、もう失敗はしないと翌日最寄りの図書館へ行って、とうとう十数年越しの思いを遂げた。

そんな、個人的に思い出深いゲド戦記。
この本を大人になってから読んだのは正解だったかもしれないと思った。
いい意味で暗くて辛気くさい話なのだ。

物語の舞台は、たくさんの島で構成されたアースシー(Earthsea)という世界。
アースシーでは「太古のことば」には力がやどっていて、魔法の素質がある者は、ものや人の「真の名」を口にすることで魔法を使うことができる。

主人公のハイタカことゲドはアースシーの偉大な魔法使いだ。
ゲド戦記1は、ゲドが魔法使いの素質を見いだされてから一人前になるまでの、ゲドの心的成長をたどってゆく。

ファンタジーなんだから冒険活劇じゃないの? と言われると、まぁたしかにそうで、ゲドは自分が呼び出してしまった影と戦いながらアースシーの世界を西に東に、最後は世界の果てまで旅をする。
丁寧に作り込まれた世界観もすばらしい。
でもメインは、悩み苦しみながら成長し、自分の負の感情と正面から向き合ってそれを受け入れるまでの、ゲドの姿。
なので、胸のすくようなエンターテイメント性を求めて読むと、淡々と鬱々と進む話にいらつくかもしれない。

さらに、社会に対するメッセージと思われるものもいくつか盛り込まれているようで、著者は子供のためだけにこの本を書いたのではなさそうだ。

まず、主人公が赤い肌で、白い肌に黄色い髪の人種が野蛮人とされている。
主人公の親友カラスノエンドウは黒い肌。
著者はアメリカ人だし、この作品が書かれたのは1968年、当時のアメリカ社会の事を考えると、主人公や重要人物を有色人種にしたのは意図的に思える。

※ 小説を読んだ後、ネット上で、ジブリ映画のゲド戦記に関するル・グウェインのコメントというのを見つけた。
このコメント内で、意図的に登場人物の多くを有色人種としたと言っており、やっぱりそういうことらしい。

また、ゲドの師たちは作中で、魔法を使うことの影響力と責任を何度も説く。
巨大な力の行使には大きな責任がついてまわる。
自然を操るとき、それが世界にどのような影響を与えるかをよく考えなければならない。
魔法は世界の均衡を揺るがす事もある。
これらを、魔法を科学に置き換えてみると、科学文明への警鐘と読める。

考え過ぎかもしれないが、主人公の肌の色を意図的に褐色にしたこともあり、そういう著者なんだろうなぁと、いろいろ深読みしてしまう。
文部省指定の推薦図書に選ばれるくらいだから、批判精神のある文学寄りの作品なんだろうという、うがった見方をしていたせいもあるかもしれない。

ところで、自分の影と戦うことや、真の名が力を持つという設定は、今にしてみれば「どこかで聞いたことがある」ようなものだ。
正直、私はサブタイトルの「影との戦い」を読んだだけで話の大筋は予想がついた。
しかし、この作品が書かれた当時はどうだったのだろう。
上記のようなアイデアは、この作品がルーツなのだろうか?
もしそうだとしたら、やっぱりこの作品は名作だ。


影との戦い―ゲド戦記 1影との戦い―ゲド戦記 1
(2000)
アーシュラ・K. ル・グウィン清水 真砂子

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ピクトさんの本 内海慶一

ピクトさんの本

ピクトさんの本
内海 慶一



「あの可哀想な人。」
「自己犠牲にもほどがある」

表紙と帯のキャッチフレーズに惹かれてジャケ買い。
ピクトさんというのは、非常口の看板でダッシュしていたり、頭上注意の看板で落下物に頭をぶつけていたり、バスや電車の優先席マークで松葉杖ついたりしている、あれだ。

私がピクトさんを注意深く見るようになったきっかけは、Dの嘘というサイトの「Dr.Dの真実の自動扉」だった(大学生のときだったかな? 懐かしい)。

簡潔なフォルムであるがゆえに、見る側の想像の余地が大きいピクトさん。
ピクトさんの造形美(言い過ぎ)が、美麗3Dグラフィックよりはドット絵が好きな私の好みに合っていたのもあり、以来、ピクトさんを個人的に興味深く見守っていたのだ。

ピクトさんという名前は知らなかったが、あいつらの本が出ていたなんて!
と、その興奮を同居人に語ったところ、ピクトさんはすでにテレビやネットで話題になっているとのこと。
なんだ・・・。

この本では様々なピクトさんの写真を10に分類して紹介している。
かけこみ系、転倒系、落下系・・・。
海外のピクトさん写真も掲載されている。ピクトさんは万国共通だ。

掲載されている写真およびコミカルな解説文は、著者である内海さんが運営する「日本ピクトさん学会」サイトの内容に加筆したもの。
サイトには本に未収録のピクトさんもたくさんあるので、あわせてこちらもチェックしたい。

私が一番好きなピクトさんは、残念ながらこの本には載っていなかった。
知り合いに教えてもらった、スウェーデンのエレベーターで頭を挟まれるピクトさんなのだが、写真が手元にないため内海さんにお知らせするすべがない。
だれか写真を持ってる人、日本ピクトさん学会に投稿してくれないかな。



ピクトさんの本ピクトさんの本
(2007/04/20)
内海 慶一

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パリジャンたちの庭と花 エディシォン・ドゥ・パリ編

パリジャンたちの庭と花

パリジャンたちの庭と花
エディシォン・ドゥ・パリ編


ガーデニングといえばイギリス。
では他のヨーロッパ諸国の庭はどうなってるの?
というちょっとした興味と、表紙に惹かれて手に取った。

ちなみにこの本、フランスの一般的なお庭の様式や有名な庭園を特集したものではないので、そういうのを求めておられる方はご注意を。

本を開いてみると、表紙のイメージを裏切らない素敵な写真がいっぱい。
パリ近郊の、バリエーションに富んだ個人の庭を、たくさんの写真で紹介している。

庭の構造を説明するための写真はあまりなく、庭の雰囲気を表現したものが多い。
どの写真もやさしい色彩で、おだやかで、ちょっと洒落ている。
写真集としてながめるだけでも楽しい。

庭は、それぞれにテーマとも言うべき名前がつけられている。
果樹園のような庭、流動的な庭、南仏気分の庭、家族がくつろぐ庭、などなど。
この名前がまた、庭に対するイメージを刺激してくれて、想像がふくらむ。

この本に載っている庭は、気取ったものが少ない。
ほどよく手が抜かれていたり、生活感がにじみ出ていたり。
そしてどの庭も日々使われている気配を感じさせ、愛されてる感たっぷりで、見ていてほっとする。

それぞれ庭の持ち主の職業も書かれていて、4人のママの庭にはやっぱり子供のおもちゃが転がっていたり、書店経営者の庭はシックで落ち着いていたりと、庭の様子から主の人柄や生活ぶりが伝わってくるようで面白い。
庭の一部分を切り取った写真が多く、それぞれの庭に訪ねてすみずみまでじっくり見て回っているような気分を味わえた。

写真には子供や動物が写っているものも多いが、中でも一番庭になじんでいるのは猫!
どの庭にも似合う。そしてかわいい。
ま、これは、私が猫好きなせいもあるだろうが・・・。

忙しいとき、カリカリしているときにながめてほっとしたり。
それぞれの庭をじっくり観察しながら、自分の庭の構想を練ってみたり。
各庭につけられた短い解説文と合わせて読んで、遠いパリの地に思いを馳せてみたり。
この一冊でいろいろ楽しませていただいている。


パリジャンたちの庭と花パリジャンたちの庭と花
(2006/03)
エディシォン・ドゥ・パリ

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生物と無生物のあいだ 福岡伸一

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
生物と無生物のあいだ
福岡伸一


生物と無生物の違いはなにか・・・それは気になる。
タイトルに惹かれて購入。

読みやすい。サクサク読める。
後日、書店の売り上げランキングにこの本が入っているのを見て、あーそうかもと納得した。

想定読者は、高校卒業程度の生物学知識を持った人、だと思う。

内容は、分子生物学の過去から現在に至るまでの大まかな流れを追いながら、途中、著者の「生きているとはどういうことか」についての見解も述べられている。
分子生物学どころか高校では地学を選択した(=生物は習っていない)私には、トピックの取捨選択のセンスや内容の正確さを判断できるだけの知識はないので、その辺の考察はパス。

この本が他の科学啓蒙書と違うのは、分子生物学の内容に関する話だけでなく、分子生物学の研究者たちのドラマにかなりのページを割いている点だ。
DNAが遺伝子であることを突き止めたオズワルド・エイブリー、DNAの二重らせん構造の発見に貢献したロザリンド・フランクリン、ドライブデート中にPCRのアイデアをひらめいてノーベル賞を受賞したキャリー・B・マリス。
しかも、多くのページを割いているだけでなく、どの話も読み物として面白い。

「生物と無生物のあいだ」というタイトルを見て、いわゆるジャケ買いしてしまった私は、

  どこからを生物とするのか?
  どこまでを無生物とするのか?
  ウイルスは生物なのか?

といったことに対する考察を求めて読み始めたので、正直、肩すかしをくらってしまった。
ロックフェラー大学の話とか、ポスドク(博士研究員)の境遇とか、そういう話を聞きたいんじゃないんですけど、という。

だが、一旦そういう気持ちを捨ててまっさらな気持ちで読み始めれば、上記の話題も興味深く、どんどん話に引き込まれ、全編を通して著者が言いたかったことも感じ取れた(・・・といっても生物学の素人としての理解なので、あやしいものだが)。

誰かがすでに言っていたと思うが、物語を書くのがうまい理系学者さんというのはめずらしい。

科学啓蒙書としてだけでなく、ドキュメンタリーとして読んでも面白い本だ。
生物学や科学に興味はあるけど敷居が高い・・・とためらっている人も、この本であればとっかかりやすいのではないかと思う。

ちなみに私は、エピローグにある、著者の少年時代の話が一番好きだ。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
(2007/05/18)
福岡 伸一


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